2021年3月11日
東日本大震災の発生からちょうど10年が経過しました。
犠牲となられた方々へ哀悼の意を表し、被災された方々へ謹んでお見舞い申し上げます。
写真は2011年3月11日
ちょうど10年前のJR博多駅の写真です。
九州新幹線が全線開業するのを翌日に控え、福岡市の空にブルーインパルスが飛行した後の昼下がり。穏やかな晴天でした。
駅の方からは人身事故でダイヤが乱れているアナウンスがひっきりなしに流れてきましたが。
この博多駅前からバスに乗り、15時約束の仕事へ向かう途中、地震が発生しました。
仙台に知り合いがいて、バスの乗車中にケータイのメールを送ると家の中はぐちゃぐちゃという返事が。
大津波が猛烈な勢いで迫っている最中とも知らず。
なお、その2年後に私が東北へ行ったときに件の知り合いとは再会でき、当時の話をいろいろと聞かせてもらいました。
当時に話を戻すと、私は仕事を終えて週末の渋滞の中で天神へ向かい、来福していた友人と合流。まだ漠然とした心配しかしていない時でした。
九州では太平洋岸の津波注意報沿岸への津波警報発令による交通機関の乱れといった影響のほかは直接地震の影響が無かったのですが、九州新幹線の全線開通セレモニーは中止に。
帰宅前に博多駅へ立ち寄ると、週末の飲み会帰りの人でにぎわう中、式典準備のために設けられたスペースはひっそりとした空間に。
これはとんでもないことになっている。
そう知ったのは地震発生の日が終わろうとしていた深夜のことでした。
2013年4月
初めて東北を訪れました。
見たい景色を見て、食べたいものを食べて、行きたい場所に行って、会いたい人に会えて。
今振り返っても申し訳ない気持ちになるほどの充実した時間でした。
そのときに訪れて思ったこと、感じたことが私とものすけの事業精神の一つにもなっています。
全文はリンク先で読んでもらうとして、その中から改めて抜粋します。
自然の爪痕が残る土地を歩いて、自分はやっぱり全力で今を生きていくことを忘れてはいけないと思った。
都市計画や街並みの再編は港町と住宅地とではまるでやり方が違う。これは大変な問題だと感じた。
アイディアも要望も出せる限り惜しみなく出さなくてはいけない。
例えば安全に暮らすならば住居は高台に、または内陸寄りに。だが海岸線のすぐそばで日々の営みのすべてをまかなっていた人たちにただ住処を与えるだけでは済まない。
大きなくくりで30年ぐらいの長い年月が必要。でも待ってはいられないから、今を大切にして創り出せるものを創る。
震災直後の被災地の様子が印象に残っているからか、「生きる」ことの方ばかりに気を取られていて「活きる」ことを求める被災者の思いを受け取ってあげていなかったように思う。
救援物資についても、なにかしら「活きる→活力」に結びつく存在として必要であり、必要とする人たちの思いや尊厳を大切にしながら必要な物事を手渡しできるよう意識しておく。
一人ひとりが活きるために全力でいられるよう、私はできることでサポートしていく。
IT活用、Web活用ってこの事業精神にぴったりなんですよね。
10年前、実体験しなかった出来事に向かい合ったときも何か活かせるようにと全力だった。
10年経ったコロナ禍の現在、少しでも活かせることを全力で考えて行動している。
人のためにサポートをし続ける仕事を営む者として、今ここで必要なことを再確認し、邁進してまいります。
10年の時を戻して、もう一度やり直すわけにはいきません。
ここからまた一日一日を大切に。
あの日の東北の空に思いをはせながら。