ご機嫌いかがでしょうか。
とものすけ です。
パソコンインストラクターの仕事を始めてから20年近く経ちますが、
「どこの学校で勉強したのですか?」とか聞かれたり、
「昔からパソコンばっかいじっとんたんやろ?」とか言われたりすることが
時々あります。
ですが、
根っからのパソコン好きが高じて、というわけでもなく、
ちょっと不思議な経緯で今の仕事に至っているのです。
今回は、
私のことについて(淡々と)書くことにします。
2019年4月14日大幅加筆しました。
変化に気づいたときは手遅れ一歩手前だった
春の始まりの苦い思い出
平成というよりは20世紀の終わりと呼ぶのがふさわしい頃の出来事。
当時、かれこれ長いこと昼も夜も休みもなく、
日中と夜間とバイトのダブルヘッダーは当たり前。
夜間のバイトは車で30分以上は走る場所へ行っていたので、
帰宅せずに現場の掛け持ちをするなんてことも日常茶飯事。
一方、空き時間さえあれば遊ぶのも常に全力。
何事にも120%の力を出そうとしないと身体が動かない性格だったもので。
そんなこんなで何年も無茶しすぎて自然と食生活も乱れまくるうちにとうとう体を壊し、
目の病気(白内障)にかかりました。
病気がわかったときは個人的なことでバイト先とのトラブルも重なり、
一人暮らしをやめて実家へ引き払いました。
働きようがないので、いわゆる引きこもりですよね。
いやそれはもう家族に心配かけたでは済まないレベルです。
(今も心配かけているのは変わりませんが)
偶然に救われた視界
白内障を治すとなると手術は避けられず、
近所の総合病院で診察・検査を受けました。
すると、そこで別の病気(網膜剥離)の疑いもあると言われて
大学病院でさらに検査をすることになりました。
…いや、逆だったかな?
大学病院へ行ってから見つかったのかな?
記憶が定かではありませんが。
実際、両眼の白内障だけでなく、
両眼の網膜剥離も進行していました。
見づらいなと意識してからこの間およそ3ヶ月。
そのままにしておくと失明に至るため、
大学病院での診察から2~3日後には入院し、手術を受けることに。
病状の進行を防ぐため常に仰向けになって安静に過ごし、
入院から10日後に右眼を、その1ヶ月後には左眼を、それぞれ手術しました。
寝返りを打つこともできず、起きて身体を動かすだけでも症状が悪化するため、
およそ2ヶ月、ベッドの上で仰向けに過ごす日々。
手術は成功、術後経過も良くて退院する頃は
既にギラギラ太陽が照り付ける真夏。
しばらく自宅療養と短期のアルバイト生活を経て、
翌年の春、桜の咲く前に残っていた白内障の手術を終えました。
退院してから見た景色…
木々の緑が鮮やかに自分の目に映ったときは、それはもう感動モンでした。
あの時、もし網膜剥離を発見されなかったら、
すぐに手術を受けられるタイミングでなかったら、
私の人生は今とは全然違う道になったことは間違いないでしょう。
本当に感謝するばかりです。
他人の目からは見えない不自由と20年付き合ってきて
おかげさまで術後経過は順調にここまで過ごしてきました。
網膜剥離の術後経過を見るのは年に2~3度ぐらいになりました。
日常生活で特別困ることはありませんが、
前屈をするように荷物を持つことはできないし、
(眼の奥に力が入るような動作は危険とのことで)
眼内レンズを入れたため遠近の調節をすることができません。
仕事の現場でパソコンの画面を見るために眼鏡を外すことがあり、
そのたび年の割に「老眼?」って笑われます。
でも間違ってはいませんので「はい、そうです」
また、個人的に乾燥する毎年冬場は試練です。
ドライアイになったり、
最近は片目が白く霞むことがあって、
朝は特に眩しさへの対応が難しく、
それでも、
目が見えなくなりそうな状況を味わったからこそ得られた
今があることを忘れずに、
もし、目が見えなくなっていたらどうなっていたか?
当時若かったせいなのか、
ですが、こんな私の人生があって巡り合った偶然があります。
そして、ようやく意外なきっかけの話に入ります。(^-^;
仕事へと結びついた意外なきっかけとは
白内障、網膜剥離と立て続けに眼の病気にかかった当時の私には
「目が見えなくなるかもしれない」
という危機感は特になく、
治れば何とかなるという気持ちでいました。
自分をコントロールできないほど働き、
身体がすべて荷重を背負ったことで
考える余裕がなかったとも言えます。
慌てず急がず。
自分に与えられた唯一のことでした。
2ヶ月に及ぶ最初の入院期間はじっとラジオに耳を傾けて、
何か書き残しておくことを時々メモに取って、という日々でした。
安静にしておくしかなかったので仕方ありませんね。
手術後も静養期間を保ちつつ短期のアルバイトを数回やった程度で
翌年の2度目の手術を終えるまでは
激動しかなかったフリーター生活から「静」の日が続きました。
ただ、一通り手術が終わると
将来働くことを考えなくてはいけません。
眼に過度の力がかかる力仕事はNG。
当時はコンピュータやインターネットを使った仕事が一般的ではなく、
目が見えなくなったときにできる仕事といえば
鍼灸やマッサージの仕事だと周囲からすすめられた時代でした。
ですが、私は人の体に触れるというのが苦手だったもので。
そこにあったひとつのモノ
そんな療養の日々の中、家にあったのが、
一人暮らしのときに買っていた日本語ワープロでした。
学生時代にレポートや学園祭のパンフレット原稿作成などで使っていて、
キーボードを見なくても文書作成ならばそこそこできるスキルではありました。
特別やらなければならないことがなかったため、
気晴らしになるし、家でもぼちぼち使っていたのですね。
余談を挟みますが、これははるか昔の話。
なぜか実家にタイプライター(英文)が置いてありました。
なぜあったのか、いまだにわからないのですが(汗)。
小学生の頃だった記憶がありますが、
適当にカチャカチャ打ってチーンって鳴らして遊んでいたのは覚えています。
あと簡単な英単語とかね。
目が見えなくてもできること
そういえば、
ワープロ専用機とタイプライターって共通点があるのですよね。
さて、何でしょう?
・・・
・・・
それは、アルファベットのキー配列が同じ。
QWERTY配列と呼ばれる、
ローマ字入力で苦戦する、あのアルファベットの並びです。
キーの並びを覚えると、自在に文字が打てるようになりますね。
今でも、
そこに気づいたときのことは覚えています。
もし、目が見えなくなったとしても
それまでに文字が打てるようになってさえいれば、
その先の技術の進歩もあるだろうし
何かしら自分にも道が開けるのではないか
タイピングを習得したぐらいで
すぐに何か大きな成功を得られるわけでもないでしょう。
でも、その気づきは
間違いなく自分の気持ちを前向きにアシストしてくれました。
家族も先のことを不安視し、いくら怒ったところで
身体の状態が落ち着かなければはじまらないため
そっとしておこうって空気も家の中で感じたことはあります。
ただ、気持ちが前向きになれるだけでもかなり救われたのは
現在に至るまで私の生きるモチベーション維持につながっていたと思っています。
偶然が偶然へとつながるまで
その後、ちょうどインターネット普及期にパソコンと出会い、
WordやExcel、メールやホームページの作り方など我流ながら使い方を覚えていくうち、
偶然にも公立学校のIT活用指導員の仕事を得ることができ、
パソコンインストラクターとしてのキャリアを歩むことになったのです。
20世紀末のインターネットの普及はネットに「つながる」の言葉通り、
様々な人や場所とをつないでくれたと思っています。
そもそも、仕事として教えた経験のない人間が
(アルバイトなどの仕事現場でOJT的に教えるのは当たり前とはいえ)
パソコンが使えるとか、インターネット利用の知識があるとかいうのが決め手となって
仕事ができるようになるなんて思ってもみなかったことです。
Windowsのパソコンが導入された場所ではワープロ(Word、一太郎)や表計算(Excel、Lotus、三四郎)のソフトを使う場面があったとはいえ、
インターネット環境はまだまだ宝の持ち腐れだった場所が多かったです。
そこへいち早く教える仕事を得られたことが、今振り返れば一番の幸運だったのでしょう。
そして、様々な現場へ赴き、数千人もの人と出会う機会をもらい、
20年後の今へ続くわけです。
気づきと偶然との連続の中で
長い人生、いつか、何か、どこかで、
大したことないと思っていた気づきが
人生の分岐点にもなるのだなと
ここまで書いてきて思い出しました。
あなたにとっての大切な気づき、
お話できることがあれば教えてください。
それでは。